ひだまりたんぽぽ

先天性代謝異常症のこどもを守る会

ヨッシー(プロピオン酸血症)

 

 我家の最愛の息子「ヨッシー」は、15年と40日の人生を駆け抜けて、2003年2月にお空の星になりました。

 「プロピオン酸血症」という難病を抱えながらも、楽しい思い出がいっぱい詰まった彼の足あとを記したいと思います。

 

             著/ヨシ母

 

診断名

 

 プロピオン酸血症 重症型 (ビオチン非反応型)

 

発症当時

 

 朝焼けが美しい冬の早朝、体重3,450gのヨッシーは元気な産声を上げました。母乳開始直後から『お姉ちゃんの時と何かが違う…』漠然とした母の勘が的中、生後7日目に意識障害になりました。高いアンモニア値のために、急きょ交換輸血、その後の検査で「プロピオン酸血症」と診断されました。特殊ミルクS22への切り替え、カルニチン投与を始めとした治療の結果、何とか生後5ヵ月で退院することができました。最悪の事態も覚悟していたので、医療関係者の方々には「命を救っていただいた」という感謝の気持ちでいっぱいでした。

 

 

生後6ヵ月~3歳

 

 特殊ミルクS22と普通ミルクの併用、蛋白制限をした食事を続け、遅れながらも少しずつ成長していきました。 抱っこするとフニャフニャした感じで、筋の緊張の弱さを実感できました。 そんなヨッシーがひとりで歩きだしたのは1歳8ヵ月のことです。

 3歳までは風邪 を引くと必ずといって良いほど、ケトアシドーシスの発作で入退院を繰り返しました。まさに「♪三歩進んで二歩さがる♪」というのがぴったりの発育でした。 2歳半からは療育センターに通い、専門的な療育・言語指導を受け始めました。

 

 

保育園時代 ―4~6歳―

 

 すばらしい保育園に巡り会いました。そこで、すてきな先生方とすてきな友だちに囲まれて、ヨッシ-は目覚しい成長を遂げました。大人の指導よりも、同世代の子供たちとの集団生活がいかに大切かを痛感しました。裸マラソン・和太鼓・英会話・座禅(お寺の保育園だったので)など、家庭ではできない多種多様な経験をたくさんし、体力的にも知的にもグーンと力をつけました。集団生活での感染症を恐れていましたが、風邪でケトーシスになっても自力で回復するようになり、一度も入院することはありませんでした。

 

 

小学校時代

 

 6歳の春、小さな身体にピカピカのランドセルを背負って小学生になりました。少し発達に遅れがあったので心配しましたが、地域の子供たちと一緒にたくさん遊びました。お勉強も一生懸命に取り組んでホッとしたのも束の間….

 1年生の夏、父親の仕事の都合でアメリカに住むことになりました。病気のことや言葉の壁などで行くべきか悩みましたが、ヨッシーを小さな頃から担当してくれていた言語指導の先生に「異国での体験は、彼の成長にとってプラスになると思いますよ。」のひと言で決心しました。そのアドバイスどおり、好奇心いっぱいのヨッシ-は、アメリカでも何ごとにもチャレンジして、友だちをたくさん作りました。家族の中でアメリカの生活を一番エンジョイしたのはヨッシーです。

 帰国する少し前に風邪からケトアシドーシスになり、4日ほど入院しました。笑われてしまいますが、3歳を過ぎてから初めての入院だったので、「やはりこの子は病気だったのだ…」と思いました。それほど良好な状態が続いていたのです。

 

 3年生の2学期からヨッシーは小学生として日本での生活を再開しました。アメリカの現地校に比べて勉強がたいへんなので、「あ~、アメリカへ帰りたいなぁ…」とよく言っていました。でも、この小学校でも先生やお友だちに恵まれて、たくさん思い出を作ることができました。

 

  小学校時代でこの場に特記しておきたいことは、4年生と5年生の運動会の練習中に「てんかん発作」を起こしたことです。その後、デパケンを投与されるようになりました。

 

 

中学校時代

 

 12歳の春、地域の中学の個別支援学級に進みました。ヨッシーは当初、一緒に小学校を卒業したみんなと同じクラスでないことに、少し戸惑っていたようですが、個別支援学級での「自分で考え・実行・反省する」という教育方針のもと、「生きる力」をどんどん育んでいきました。ここでもすばらしい先生方と仲間に出会い、心身ともにたくましくなりました。入学当時140cmだった身長が165cmになり、母親を「うざい」というようになりました。

 

 入学間もないころ「卓球部に入ろうかな…」とヨッシーが言った時、『運動部は無理でしょう?』と思っていました。でも、ヨッシーは「マラソン免除」の特権付きで入部し、3年生まで練習を続けました。

 

 この時期の特記事項は、やはり、てんかん発作を2度起こしたことです。1回は体育の授業でランニング中、もう1回は登校途中に倒れ、額に軽いケガをして、救急車のお世話になりました。

 また、眼科で「緑内障」と診断されたのも中2のころです。眼圧が少々高く、定期的に視野検査をしていました。

 

 その他、中学時代の入院暦は2回。1回目は中2の夏に髄膜炎で10日ほど、2回目は卒業を目前にした冬、発熱と嘔吐が止まらずに入院しました。本人も家族も『1週間ほどで良くなるだろう』と軽く考えていたのですが、このときはいつもと違いました。通常なら点滴をして2~3日で快方に向かうはずなのにジリジリと容態が悪化し、1週間後には意識不明に陥ってしまいました。

 

 意識を失う前に「ぼくの病気って治らないの?」と、生まれて初めてヨッシーは弱音を吐きました。その問いかけに、母としてきちんと答えてやれなかったことが無念です。

 それからさらに1週間後、ヨッシーは静かに天に昇っていきました。

 

 

おわりに

 

 ヨッシ-はたくさんの友だちに恵まれて、本当に幸せな人生を歩みました。

 明るくはつらつと生きている姿に、病気であることを忘れてしまうことさえありました。私たち家族に思い出をいっぱいプレゼントして、今は空からみんなのことを見守っています。夜空に一際キラッと輝く星を見つけたら、それがきっとヨッシーの星です。

 

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